こちら→ wish ←こちら

Ads by Google

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2003年4月〜6月、北関東抗争 - 五代目山口組 弘道会 × 住吉会 住吉一家 親和会

北関東抗争(きたかんとうこうそう)は、2003年4月〜6月に北関東などで起きた五代目山口組 弘道会と住吉会 住吉一家 親和会との抗争事件。


経緯
2003年4月、山口組 弘道会 東海興業の舎弟頭補佐・大栗 彰が組長を務める大栗組と住吉会 住吉一家 親和会 田野七代目が栃木県内の運転代行業の利権を巡って衝突。 和解の為に話し合いがもたれるが決裂。
4月18日午前3時頃、田野七代目組員が大栗組事務所に保冷車を突入させた事をきっかけに抗争が始まった。
朝方、田野七代目事務所に十数発の発砲事件。 他、組関係と見られる栃木県内の会社、マージャン店、住居などへ立て続けに発砲事件。
4月21日、大栗組事務所に警戒中のパトカーを押しのけ2度目のダンプカー突入。
午前11時頃、栃木県氏家町の県営住宅駐車場で、田野七代目の幹部・関谷弘美が銃撃され病院にて間もなく死亡。
4月23日、栃木県警が栃木県内の大栗組事務所と田野七代目事務所に、宮城県警が仙台市内の東海興業事務所に、暴対法に基づく「組事務所の使用制限」の仮命令を出す。
5月5日未明、名古屋市中村区の弘道会本部事務所付近の路上で、弘道会系 司龍興業組員が交差点で車に乗っている所を銃撃され全治1ヶ月の重傷。
午後2時55分頃、栃木県佐野市の住吉一家 親和会 光京睦会本部事務所で、同会特別相談役・野沢昇平と、同会 鈴木組組員・渡辺利敬が正面玄関から侵入した男に銃撃され2人とも病院に運ばれたが死亡。
午後9時25分頃、宇都宮市の親和会 下馬木一家付近の路上で、警戒中の同組組員・井野 靖が近づいてきた車から降りた男に銃撃され重傷。
5月6日、群馬県桐生市にある住吉会系事務所に発砲。茨城県土浦市の山口組系組員宅に発砲。
5月9日、愛知県警が弘道会本部事務所に、暴対法に基づく「組事務所の使用制限」の仮命令を出す。
5月13日、栃木県警が親和会本部事務所と光京睦会総本部事務所に、暴対法に基づく「組事務所の使用制限」の仮命令を出す。
5月14日午後3時40分頃、栃木県栃木市にある県立栃木女子高校正門前の郵便局駐車場で、住吉一家 親和会 樺山組組員・舟橋一也が車に乗った男から銃撃され死亡。
5月15日、すでに仮命令の出ている東海興業、大栗組、田野七代目の3組事務所に「組事務所の使用制限」の本命令が出る。
弘道会本部が、傘下組織に抗争中止命令を出した。
深夜、山形県山形市内の路上で、弘道会系組織に関係すると思われる男性が車に乗っている所を銃撃され重傷。
5月19日、福島県福島市内のコンビニエンスストア駐車場で、弘道会系組員が銃撃され軽傷。
5月20日、山形市内の弘道会 高橋興業事務所があるマンションに、5発の発砲。
5月23日午後10時45分頃、仙台市内の東海興業幹部自宅玄関付近で爆発音があり、のちに鉄パイプ爆弾が爆発したことが判明。
6月12日午前、東京都内のホテルで、弘道会と親和会の和解交渉により抗争終結。

関係組織
五代目山口組 弘道会
東海興業
大栗組
司龍興業
高橋興業
住吉会 住吉一家 親和会
田野七代目
光京睦会
下馬木
栃木二代目
樺山組


1975年7月〜1978年11月、大阪戦争 - 三代目山口組 × 二代目松田組

大阪戦争(おおさかせんそう)は、1975年7月26日から1978年11月1日に掛けて大阪府周辺で起きた三代目山口組と二代目松田組との抗争事件。

ジュテーム事件
1950年代後半以降、小松島抗争、明友会事件、夜桜銀次事件等の抗争を通して神戸から日本全国に侵攻した山口組を支えていた組織力と経済力は、警察の「第一次頂上作戦」によって大きな打撃を受けていた。

1975年7月26日深夜、大阪 豊中市の喫茶店「ジュテーム」において松田組系 溝口組の集団が、先にいた溝口組幹部と面談中の山口組 佐々木組(組長・佐々木道雄)の組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。この背景には佐々木組内 徳本組の構成員が大阪 キタにある溝口組の賭場で起こしたトラブル(嫌がらせ)があったとされる。

この佐々木組と溝口組の衝突は一旦は和解のプロセスに乗ったが決裂。同年8月23日に松田組幹部の自宅に銃弾が打ち込まれた直後、佐々木組の本家である神戸の山口組本部に銃撃が行われたことで大阪周辺の山口組勢力も参戦する結果となった。この後、翌9月3日には大阪市南区(後の中央区)の山口組系 中西組(組長・中西一男)の組員が松田組系 村田組 大日本正義団組員に射殺されている。

この混乱に山口組の組長・田岡一雄は傘下の組織に自重するよう厳命したとされる。


日本橋事件
抗争は一旦沈静化したが再び大きな展開を迎えた。 翌年の1976年10月3日に大阪 日本橋で大日本正義団の会長・吉田芳弘が佐々木組組員によって射殺された。

(飯干晃一の造語である)「血のバランスシート」の考えからすると佐々木組からは前年3名の死者を出していることもあって、当然の報復だった。すぐに松田組側から報復が行われると警戒されたが、そのまま何事も無く1年以上の時が過ぎることとなった。


ベラミ事件
日本橋事件から1年9ヶ月後の1978年7月11日、山口組組長の田岡一雄は、京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」を訪れた。この時、田岡が「ベラミ」を時々訪れる情報を事前に掴み1ヶ月ほど前から通いつめて待ち伏せていた大日本正義団幹部・鳴海 清によって田岡は狙撃された。凶弾は田岡の首に命中したが、奇跡的に一命を取り留めた。

この特攻とも言うべき狙撃は、当時既に巨大な組織となっていた山口組のトップが、命の危険に晒されたという意味で大きな衝撃を与えた。

山口組の報復と抗争終結
このベラミ事件は親分思いの山口組若頭・山本健一の怒りに火をつけた。鳴海 清を追跡する一方で、山本は容赦のない攻撃指令を出した。

報復は山本率いる山健組を中心に、宅見組(組長・宅見 勝)などが参加した。 同年8月17日から10月24日にかけて公衆浴場や松田組幹部自宅、路上といった場所でも無差別に松田組組員を次々と射殺した。田岡を狙撃した鳴海 清は9月17日に六甲山の山中で、激しい暴行を加えられたことが明らかな状態の他殺体となって発見されたが、真犯人の判らぬまま1993年に時効となった。

松田組との手打ちすら望まない山本健一は、11月1日に報道陣を神戸の田岡邸に招いて一方的に抗争終結を宣言。松田組も終結宣言を大阪府警に提出し、大阪戦争は終結した。


大阪戦争後と、その影響
山口組は第一次頂上作戦以降薄れていた、その強さと威信を再び内外に見せつけることになった。
持病により元々体調の悪かった山本健一は保釈を取り消され、再び収監される身となり、肝臓病を悪化させたことで、田岡の後を追うように1982年に この世を去った。このことは後に山口組の4代目争いを引き起こし混乱と分裂(山一抗争)を招く遠因となった。
松田組は「松田連合」に改称して組織建て直しを図ったものの、傘下組織の相次ぐ離脱などにより勢力が激減し1983年5月25日に解散した。


1963年4月〜1967年8月、広島代理戦争(第2次広島抗争)- 広島の諸組織 × 三代目山口組

広島抗争(ひろしまこうそう)は、1950年頃から1972年に掛けて広島で起こった抗争の総称。警察庁による名称は広島けん銃抗争事件。狭義には映画「仁義なき戦い」のモデルとなった第二次広島抗争(1963年4月17日〜1967年8月25日。広島代理戦争とも呼ばれる)を示すことがある。

広島抗争と呼ばれるものには第二次の他、第一次広島抗争(1950年頃)と第三次広島抗争(1970年11月〜1972年5月)が広く知られるが新井組粛清、血の粛清と呼ばれる青木組粛清の内部抗争を含め5次と数える向きもある。 ここでは、第一次から第二次までについて言及する。

第一次広島抗争と広島ヤクザの系譜
第一次広島抗争は戦後の広島市の博徒・岡 敏夫(岡組組長)の勢力拡大に伴う地域覇権争い [1]。

終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で、1950年に岡組舎弟・打越信夫(打越組組長)が、対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で勢力を伸ばす結果となった。

戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では岡の勢力が拡大し、 その中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎、服部 武などの勢力が台頭した。 また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し、若頭・佐々木哲雄、若衆・美能幸三らが台頭していた。

岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて、岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく、山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった。 この打越の縁組は後に抗争を、いわゆる「仁義なき戦い」へと導く一つの要因となった。

岡 敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出
1960年頃から岡 敏夫の健康問題から後継争いが起きる。 最有力候補は打越信夫だが、網野光三郎、服部 武も実力は伯仲していた。 そのような折の1961年5月、美空ひばりの公演のため三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)が 広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを有利に進めようとした打越は、 山本と美能幸三の仲介により山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した。

広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡は この盃を嫌い、1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した。 かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し山陽最大の勢力を持つようになった。 また、岡組勢力も山村組に組み込まれる形となった。

当然この事態は打越側に衝撃を与え、 同年6月には打越の舎弟と山村組の縁戚の間で抗争が起き、その手打ちのため打越は指を詰めた。 打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した。

当時は山口組側にも思惑があった。 1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り、山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し、鳥取に進出。 翌年には その鳥取に進出していた直参の小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし 山陰進出を着々と進めていた。 山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる現金屋の内紛に介入して熊本 親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった。

このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた山口組にとって 山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった [2]。

そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した。 打越は、1962年9月に田岡の舎弟となり、 打越組が山口組の配下に入り打越会と改称することになった。

打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は、 神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした。


山口組の本格的な介入
この時点で打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、山口組と本多会という大組織の代理戦争の様相を呈するようになった。 山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。

まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の山口英弘(山口(英)組組長)を絶縁とする一方、指を詰めて手打ちをしたことにより現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部 武と打越信夫との兄弟縁を復縁させた(山村組勢力の取崩しを図った)。

山村組内でも打越を通じて山口組と懇意にしだした美能幸三を破門とし、 その美能は打越陣営に参画し山村と対決姿勢を鮮明にした。

このように広島の勢力図が打越会―山口組派と反山口組の山村組派とに分かれる中、1963年4月17日に美能組幹部の 亀井 貢が山村組系組員に射殺され戦いの火蓋が切って落とされた。


第二次広島抗争の勃発と激化
亀井 貢の葬儀後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた。 その報復を待たずして さらに追い討ちを掛けるように 1963年5月26日には打越会を絶縁された山口英弘の若衆が 打越会の組員を殴打する事件が起きた。 直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲、 路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した。

打越側の報復は打越信夫の手際の悪さから上手く組織が機能せず、 当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。

業を煮やして打越を見限った山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の山口組系組員を広島へ派遣した。 しかし広島県警が大量動員を掛けて抗争を阻止し、報復を出来ずに帰らざるを得なかった。 その際、報復に消極的な打越に対して山本は激怒し、「われはもう引っ込んどれ!」と言いつけ、 山口組と広島のパイプを美能にシフトした。

1963年9月19日に ようやく腰を上げた打越会が山村組幹部・原田昭三宅をダイナマイトで爆破、 さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。

山村組の服部 武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し、山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた(玄関のガラスも割れた)。 名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山村組の仕業と思われていた。

山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し、1964年5月に共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った。


警察の介入と抗争終結
1967年に入ると警察は激化する抗争に対して折からの第一次頂上作戦を広島でも強化し、山村辰雄、打越信夫を逮捕した。 年配の山村、闘争意欲の低い打越は共に獄中で引退を表明した。 打越は同年8月19日に田岡邸を訪れ打越会の解散を申し出、了承された。

解散した打越会の元組員に危害を及ぼさないための共政会、打越会の手打ちが1967年8月25日に 実施された。 こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し、 中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。

山口組は実害が無かった(被害は全て打越会に出た)ものの、 結果的に広島進出に失敗し進出の機会が当分閉ざされることとなった。

参考文献
この事件については毎日新聞社の『組織暴力の実態』、広島県警の『暴力許すまじ』、中国新聞社の『ある勇気の記録』、美能の手記を編纂した飯干晃一の『仁義なき戦い』がある。 また向江璋悦が山口組組長宅ピース缶爆破事件で起訴された山村、服部らを弁護した『無罪の記録』がある。



1960年8月、明友会事件 - 三代目山口組 × 明友会

明友会(めいゆうかい)は1953年ごろ大阪府大阪市の鶴橋駅高架橋下にある歓楽街や生野区猪飼野近辺のアウトローが寄り集まって出来た愚連隊の連合組織・暴力団で1960年に解散した。 会員の大半は韓国人・朝鮮人の若者で構成されていた。

成立ち
生野区周辺や大阪のミナミを中心に戦後の群雄割拠の小団体との抗争を通して勢力を拡大させ、1950年代後半には600名を超える構成員を擁したと言われる。 明友会と言う組織自体は現在のヤクザのような強固なものではなく、愚連隊の連合体と言うべき比較的もろい組織だった。 1960年に山口組と抗争(明友会事件)を引き起こし、猛攻の前に僅か2週間たらずで壊滅した。

明友会事件
明友会事件は1960年8月9日から1960年8月23日にかけて起きた山口組と明友会との抗争事件。 1960年8月9日大阪ミナミのクラブ「青い城」で山口組組長田岡一雄と大阪十三の中川組組長中川猪三郎、 山口組幹部の山本広(山広組組長)等が歌手田端義夫の公演に関する労をねぎらっていた折、近くにたまたま同席していた明友会の構成員が田端に歌を強要した。

その要請を中川猪三郎は慰労会の折で来ている事情を説明し断ったが、間髪を入れず明友会構成員に殴打された。 店内は大立ち回りで一時騒然となったが、田岡一雄は身を挺して田端をかばいその場は事なきを得た。

この一件で面子を丸潰れにされたた山口組は激怒し、明友会からの2度にわたる和解の仲裁が提示されたが和解案の内容自体が受け入れ難いものであったため、これを拒絶した。 そればかりか、和解案が十分でなかったため、更に山口組の態度を硬化させる結果となった。

それでも明友会の甲山五郎こと姜昌興会長から諏訪一家の総裁(諏訪健治親分)を通して山口組の山本広若頭補佐(山広組組長)へと和解への 努力は続けられたが、それを待たずして、今度は明友会の構成員 6人が山口組の 加茂田組 構成員 3人を殴打する事件がミナミで発生。 もはや和解の道は完全に閉ざされた。

明友会襲撃は地道行雄を指揮官として、柳川組、加茂田組(加茂田重政組長)等を中心に部隊が構成され、8月11日以降明友会のアジトを次々容赦なく襲撃した。 この襲撃には夜桜銀次なども参加していた。

8月20日には東大阪市にある有楽荘アパートを襲撃され死者を出すなど一方的な攻撃を受け、総崩れとなった明友会は別府の知人石井一郎(石井一家総長)を頼って全面降伏を申し出た。 この事件で 山口組は 逮捕者84人を出。その中で 柳川組だけで逮捕者24人をだした。 1960年8月23日明友会側は姜昌興会長以下、最高幹部15人の指を詰め手打ちを行い抗争は終結した。



1957年3月〜4月、別府抗争 - 三代目山口組 石井組 × 井田組

別府抗争(べっぷこうそう)は、1957年3月〜4月に大分県別府市で起きた三代目山口組 石井組と井田組との抗争事件。

1957年春、「別府温泉観光産業大博覧会」の仮設興行権を巡って、地元組織の井田組と石井組が対立。 3月27日には、博覧会場で石井組組長・石井一郎を井田組組員が拳銃で狙撃して重傷を負わせ、4月2日には、井田組組長・井田栄作(別府市議会議員)配下の別府市議・堀 某を石井組組員が刺殺するという事件が発生した。 さらに4月8日、石井組組員7人が井田宅に猟銃・拳銃を発砲、その後2ヵ月に渡り県内外の暴力団員約400人が両派(石井組―三代目山口組、井田組―本多会)に集結し、対立抗争事件を起こした。

その後、石井組、井田組両派は、福岡県の重鎮である中間の大野留吉の仲裁で手打ち式をして和解、抗争終結。 石井、井田らは殺人未遂で逮捕され、井田組は解散した。

この事件は、凶器準備集合罪新設の一つの契機となった。



1956年7月〜1957年10月、小松島抗争 - 三代目山口組 二代目小天竜組 × 本多会(平井組、福田組)

小松島抗争(こまつしまこうそう)は、1956年7月から1957年11月に掛けて徳島県小松島市で起きた三代目山口組 二代目小天竜組と本多会系の平井組、福田組との抗争事件。

経緯
徳島県小松島市は戦前より博徒として新居良男(小天竜組組長、山口組舎弟)と的屋稼業の平井組(組長・平井龍雄)が地盤を持ち小競り合いを続けていた。 両者においては、平井組が勢力で上回り、平井は後に四国神農会の大立者となる いわば「切れ者」だった。 その平井組がパチンコブームの中で1950年に「大小」という機械を置いて商売を始めた事から、「賭博は博徒のものであり縄張り荒らしである」と小天竜組は平井組に抗議。 これに対して「機械については盆とは違う」と平井組も反論したことで両者の対立を招く結果となった。

そのような状況の1956年7月13日の夏祭りの夜に、小天竜組の構成員が平井組の事務所を襲い、双方合わせて死者1人、負傷者3人を出す事件があった。 この事件は地元県議と本多会幹部の奔走のおかげで、大きな抗争に至らず4日後の7月16日に手打ちとなった。

しかし、討ち入りの余韻が冷めていない翌1957年10月に、かねてから小天竜組と対立関係にあった福田組の構成員が小天竜組事務所の前で喧嘩を起こし、相手(小天竜組とは直接関係のない人)を水死させる事件を起こした。 それを見ていた小天竜組組員は事務所の前でトラブルを起こされて気持ちが収まらなくなり、福田組組員を川に突き落とした。 この些細な出来事をきっかけに、1957年11月20日、福田組組員が報復として小天竜組の組長・新居良男を小松島港の岸壁で待ち伏せ銃撃し重症を負わせた(これは銃撃戦となったため双方に負傷者が出た)。


山口組の介入
一旦和解が成立した後の事件だったために小天竜組の上部団体である山口組は激怒し、直ちに行動をとった。 若頭の地道行雄を指揮官として、安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎彰春ら幹部が組員115人を動員して小松島へ乗り込んだ。

しかし、このとき動員の情報を入手し徹底監視していた兵庫県警と徳島県警の介入により実際の抗争は避けられた。


小松島抗争と その後抗争
小松島抗争は三代目山口組(組長・田岡一雄)になって初めての大規模な抗争となった。 このとき採られた迅速な大量動員による徹底的な示威行為は、その後の山口組の抗争(明友会事件や夜桜銀次事件、広島抗争等)で繰り返される戦術となった註1。

註1 この場合、動員による威嚇が目的ではなく(動員してもすぐに帰還させる必要がある)消耗戦になった場合に人的にも資金面でも余裕があると誇示するデモンストレーションであり、また山口組が一丸となって喧嘩をするという意思表示として戦略と呼ぶに相応しい。
この戦術を確立した山口組は以降、若頭・地道のもと圧倒的な武力を背景に1960年代から1970年代に掛けて全国に侵攻していくこととなった。 小松島抗争は、その先駆けとなる抗争だった。


1962年1月〜3月、博多事件(夜桜銀次事件) - 三代目山口組 × 九州の諸組織(宮本組、大島一家など)

夜桜 銀次(よざくら ぎんじ、本名: 平尾 国人(ひらお くにひと)、1929年 - 1962年1月16日)は、ヤクザ、暴力団・三代目山口組系 石井組舎弟。 全身に夜桜の咲き乱れる刺青をしていたことから、夜桜銀次と呼ばれた。

銀次が博多で殺害され、山口組が九州へ進出するきっかけとなった1962年の「博多事件」(「夜桜銀次事件」とも)で、結果として「鉄砲玉」の役割を果たしたとされる。 ルックスが良く、性格は凶暴で酒、女、博打に明け暮れた銀次のドラマチックな生涯は、没後しばしば映画のモデルとして扱われた。 戦闘指揮官であった地道行雄からすれば、「いきがってやがる」と苦笑される存在でしかなかった、とも言われる。


夜桜銀次の生涯
1929年、後の大分県大分郡庄内町に生まれた。

かつて別府で共に愚連隊として行動していた石井一郎の元へ身を寄せ、1952年頃、石井率いる石井組の舎弟となった。 小倉の大物・村上義一(三代目山口組舎弟)の舎弟分となった石井は別府の井田組(組長・井田栄作)と対立。 銀次は1957年、別府で石井が狙撃され勃発した「別府抗争」に参加し、大分県警に指名手配された。

翌1958年、山口組の2次団体となった石井組は、警察に追われる銀次を同門の山本 広に託した。 当時から石井組と本家との窓口は山本 広が行うことが多く、これは後の山一抗争にも繋がっていく。 銀次は山口組舎弟で荷役会社を経営する白石幸吉(山本 広の親分筋)を頼って神戸に身を潜伏させる。 無職では警察が厳しいため荷役仲士の小頭という名目で白石の飯を食っていたが、賭場にも出入りして遊んでいた。 この神戸潜伏中にも、1960年に大阪で起きた山口組による明友会襲撃に参加し、傷害容疑で指名手配となった。

その後、石井の兄弟分である博多の伊豆組組長・伊豆健児の元へ身を寄せた。 滞在中の1961年12月20日頃、賭場で揉め事を起こし、住吉一家の系列である地元・博多の宮本組組長・宮本 勝を殴打したばかりか拳銃を用いたとされる。

その後、1962年1月16日、自宅で胸、顎、喉、左肘を拳銃で打ち抜かれ殺害されてしまった。


博多事件(夜桜銀次事件)
直後、石井一郎は博多に入り、山口組も若頭・地道行雄(地道組組長)が若頭補佐・山本 広(山広組組長)を博多に向かわせた。 賭場の一件を原因と見ている石井は1962年2月6日、九州勢(宮本組の名代)と会談したが決裂した。 そもそも宮本組は銀次殺害に関与していなかったからである。

当時の背景として、地元・九州勢の中には山口組と手を結んだ石井組の行動に反感があった。 この頃の石井組は別府を制した勢いのまま筑豊(太田州春とも兄弟分)、日向地方にも進出。 殺し屋を多数抱えていた石井の雷鳴は九州全土、遠く沖縄にまで響いていた。 伊豆にしても渡世の道を仕込んでくれた梅津高則(梅津会初代会長)の舎弟ではあるが、大勢いる九州の大親分たちを選ばずに神戸の盃を受けるというのは“スジが違う”という反感を持たれていた。 宮本組の背後には地元の大勢力、八幡の住吉一家(総長・住吉鹿之助)も存在。 住吉の背後には「ヤマ」のネットワークが存在し、過去の吉田磯吉の跡目を巡る九州ヤクザの抗争を見ても団結力は侮れず、そのため抗争になれば九州全域を巻き込む危険があった。

交渉の決裂を受けて山本 広は神戸に帰り地道に報告、地道は山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)、山健組組長・山本健一ら幹部と協議の結果、抗争を選択し、傘下の組織に九州動員を命じた。 程なく銀次の葬儀名目で山本健一率いる約250名の山口組が博多に入った。事態の推移を事前に警戒していた福岡県警もそれに対応して国鉄博多駅で待機していたが、山口組は一駅前で武器を降ろしていたため、逮捕することは出来なかった。博多区中洲近郊のホテル・旅館に山口組は分散して宿泊していたが、その夜突如中洲近郊が停電に陥った。停電を九州勢の襲撃と勘違いした山口組側は隠していた武器を取り出したため、警察に踏み込まれ大量検挙により抗争は未然に回避された。註1。

註1 この人員が戦闘団であったかどうかは明確ではない。動員された組員の本来の縄張りの事や裁判までの莫大な費用を考えても示威行動と見る方が実情に近い。例えば、数百人が乱闘事件を起したという事例は戦後の北海道で起きた津別事件を除いては暴力団の歴史にない(渋谷事件、新橋事件も100人足らずという説がある)。広域団体の松葉会と本多会が山中温泉へ、錦政会も岐阜や熊本に道具をもって動員をかけているが、あくまで示威行動であった点は明記しておくべきであろう。
その後、銀次殺害の犯人が逮捕された。 犯人は宮本組関係者ではなく金銭貸借で揉めていた炭礦会社の有名な社長であり、久留米の鳥巣組のヤクザに殺しを依頼したというのが真相であった。 その後、山口組は誤解を認め、舎弟頭・松本一美(松本組組長)、幹部のボンノこと菅谷政雄(菅谷組組長)を派遣し、1962年3月15日、両者手打ちとなり抗争は終結した。 しかし、この一件で、大量に動員をかけた山口組の勢力は以後九州にも及ぶこととなったが、九州ヤクザも大同団結して双葉会という大組織が結成される契機ともなった。なお、この双葉会の大島会長(福岡市の下水道の公共工事に絡む汚職疑惑で取りざたされるなど影の大物とされる)を初代※とする太住会からは指定暴力団福博会の2代目会長が輩出されている。

※厳密には、太住会は双葉会からの系譜では無い。

夜桜銀次の生涯の映画化
銀次の死後この一件は映画化された。 1974年公開の菅原文太主演の「山口組外伝九州侵攻作戦」はヒットし、その名前は後に広く知れ渡ることとなった。 そのほかにも銀次をモデルとした映画には、2001年「実録・夜桜銀次」、「実録・夜桜銀次2」がある。


山一抗争6

抗争の終結
1988年末時点において勝敗は決していた。 一和会組員は最後には山本広会長の周囲に20人程しか居なくなったと言われている。

抗争の終らせ方を決めれば良いだけの状況になった山口組は、若頭渡辺芳則の外交手腕から稲川会、会津小鉄会を仲介して山本広の引退と一和会の解散を取り付けた。
1989年3月30日稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れた山本広は侘びを入れ、5年に渡った抗争は終結した。
この山一抗争では、317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者17人、負傷者49人、山口組側に死者8人負傷者17人を出す最悪の結果となった。



山一抗争5

抗争の激化と長期化
組長と若頭の最高幹部2人を同時に失うという非常事態を迎えた山口組は舎弟頭だった中西一男を組長代行に、若頭補佐だった渡辺芳則(山健組組長)を若頭に選出した。

竹中の暗殺は山口組の報復の気運を一気に盛り上がらせることになり、一和会は以降山口組の一方的な攻勢にさらされることとなった。

同年にはかっての身内同士の争いに心を痛めていた田岡文子姐が亡くなったが、 この頃から、稲川会などを中心に抗争終結に向けた工作が取られるようになった。

加えて、多額の戦費を必要とする抗争が長期化するに至って、警察の警戒強化のため普段のシノギが厳しくなり2大勢力の総力をかけた抗争は経済戦の様相も呈してきた。

長期戦になると経済力で劣る一和会側の末端に離脱者が相次ぐようになった。 1986年に入ると稲川会、会津小鉄会の奔走で一応の停戦状態になったが、手打ちには至らなかった。
翌1987年5月7日には一和会副会長兼理事長の加茂田重政(加茂田組組長)が自身の引退と加茂田組の解散を表明して抗争から離脱。また一和会最高顧問の中井啓一(中井組組長)も離脱・引退していった。
追い討ちを掛けるように竹中組組員によって、山広邸の襲撃や爆破事件が起こり、直系組長の離脱が相次ぐようになった。

また、抗争が長期化した要因としては暴力団の内紛を利用して、組織の弱体化を図った警察の思惑もあったとされる。



山一抗争4

一和会勢力の取崩しと竹中正久四代目暗殺
1984年の抗争当初の勢力は一和会が6千人、山口組が5千人程で一和会の方が優勢であった。 しかし、山口組側が一和会に参加した幹部を絶縁とし、態度保留組を取り込むなどして徐々に一和会勢力の取崩しを図っていった。 こうした取崩し工作のため半年後に一和会勢力は3千人未満にまで落ち込んだ。 危機感を募らせた一和会側は山広組を中心に竹中正久山口組四代目を暗殺する計画を立てた。

程なく竹中の愛人が吹田市のマンションに住んでいることを突き止めた暗殺部隊は、同マンションの一室を借り機会を伺った。
1985年1月23日21時15分過ぎ竹中を認識した暗殺部隊は、エレベーターホールに居る竹中正久、山口組若頭中山勝正(豪友会会長)、ボディーガード役の南力の3名を銃撃。 中山勝正と南力は頭部に被弾してその場でほぼ即死した。 竹中には3発の銃弾が命中し瀕死の状態となった。特に1発目と3発目は内臓、心臓に大きな損傷を 与え体内に留まり致命傷となった。竹中は治療の甲斐も無く翌日27日に意識の戻らぬまま息を引き取った。